源平合戦後、兄頼朝によって平泉で自害させられたとされる源義経。
その義経が、実ははるかモンゴルに渡りモンゴル帝国を築いたとしたら・・信じられるでしょうか?

でも、源義経=チンギスハン説は脈々と語り継がれています。

その根拠は一体なんなのでしょうか?

あまりにも突飛に思えるこの仮説ですが、色々調べてみると、「確かにあり得るかも。」と思わせる証拠が見つかりました。

とりあえず義経が衣川で自害させられてはいないのは信憑性があります。

 

そこで今回は不思議大好きな同志達の為に、
源義経=チンギスハン説について詳しく検証してみたいと思います。

源義経はチンギスハンになった説は本当か?

史上最大のモンゴル帝国の基礎を築いたチンギスハン。
それなのに彼に関しての資料が少なすぎるのはご存知でしょうか?

生年月日さえわかっていないんです。

 

ただ、これは当時のモンゴルなら普通だったのかもしれませんが。

二人の共通点を見てみましょう。

義経は31歳で死亡17年後にチンギスハンが歴史に登場。
この時41歳と言われています。

大体同年代なんですね。

 

さらに当時のモンゴルで大型の弓を使っていたのはチンギスハンただ一人。
普通は小型の弓を使うのがモンゴル人なんです。

ちなみに大型の弓を使っていたのは日本人です。
義経がモンゴルに渡ったなら頷けますね。

 

大河ドラマでやりましたが、義経はこの動画のような鎧兜を着ていたと思われます。

ずいぶん前のドラマですが、石原さとみさん出演されていたんですね。

当時から綺麗。

それはいいんですが、そもそもこの説、【義経はチンギスハンになった】はヨーロッパから日本に来た医者、シーボルトが言い出したものです。

「歴史を見直したほうがいいですよ〜!」って。
彼は大陸から渡ってきたわけなので、そこの事情に詳しかったのかもしれません。

でも、衣川で自害させられた義経の首は鎌倉にいる頼朝の元に送られています。

これでは言い逃れができそうにありませんが・・・

 

鎌倉に義経の首が届いたのは6・13と言われています。
今でいうと真夏です。

当時でも20日でいける平泉と鎌倉の距離。
それにもかかわらず、実は義経の死から鎌倉まで43日もかかっています。

なぜでしょうか?
なぜだと思いますか?

真夏なら首が腐らないように急ぎそうなものです。
それにも関わらずいつもよりも倍以上の日数がかかっています。

 

ここで一つの仮説が浮かんできます。

送られた首って・・義経じゃなかったんじゃないの?

義経じゃないから頼朝が首検分をした時にばれないようにわざと時間を稼いで腐らせたのでは?

 

ではその首は誰のものだったのか?

実は義経の死を境にその記録が途絶えた男がいます。

名を杉妻太郎。
義経の世話役の男性です。

二人は見間違うほど似ていたと言われています。
つまり、影武者ですね。

彼の首が鎌倉に送られたのです。

 

一応義経の位牌はあります。
平泉に。

戒名【館を捨て、山を越えた義経】

ん?

「平泉を捨て、山を越えてさらに北へ向かった。」ということでしょうか?

実はその後北を目指す義経を目撃し、風呂を貸した人物までいるのです。
風呂を貸したことで義経に「風呂」と言う名字まで与えられています。

ただ、兄頼朝もバカではありません。

腐った首では信用できなかったのでしょう。
平泉に刺客(畠山重忠)を向けたようです。

兄弟なのにそこまでしますかね(-。-;

 

ちなみに北に逃げて行く義経の痕跡が今でも残っています。

例えば、岩手県石見氏には源義経と弁慶の名が記された木片が残されています。

 

岩手県普代村には、北を目指す義経一行が不行道(現在の普代村)で道を断たれて一週間ほど滞在したと記録があります。
刺客が迫っていたのです。

つまり、義経の足取りを確実に追っていたことがわかりますね。
義経が生きてることは源頼朝自身が半分証明してくれてるわけです。

 

なんだか義経が本当は生きていた事に信憑性が湧いてきましたね。

他にも義経は北を目指し、モンゴルにたどり着いた証拠にモンゴルで義経のものとよく似た家紋が見つかっています。

話を日本に戻しますが、義経を追っていた刺客、名前が分かっています。
と言うか結構有名人です。

彼の名は畠山重忠。
源平合戦では義経の腹心だった侍です。

 

実は岩手で追いついたのです。

で、どうしたか?

これは証拠が残っているんですが、畠山重忠は源義経と弁慶の追いつき・・・
矢を放ちました。

 

放たれた矢は二人に当たらず、そこにあった木に突き刺さったそうです。

そして矢は岩手県久慈市にある諏訪神社に、今も御神体として祀られています。

畠山重忠は義経を殺したくなかったのでしょう。
そのまま北上した源義経・・・北海道に行き着くわけです。

 

さて、ここまで源義経=チンギスハン説を検証してきましたが・・b46856aae5caf4b83eb641471bca8903_s
ここからですよね。

北海道、当時でいう蝦夷(えぞ)にたどり着いたはいいですが、モンゴルまでどうやっていくの?と疑問が浮かんできます。

それはないだろ。と。

 

しかしよくよく当時のことを調べてみると、なんとあったんです。
12世紀に日本からモンゴルへ行くルートが。

源義経はどうやってモンゴルに渡った?

その頃の蝦夷では海洋民族が築いた文明が栄えていました。

船を使って大陸と交流していたのです。
これは仮説ではなく、ほぼ確定です。

 

もし源義経が北海道までたどり着けていたなら、そこから彼らの力を借りて大陸へいけます。
あとは陸路ですから、モンゴルに行けないとは言い切れないのです。

つまり、源義経=チンギスハン説はあながち間違いではないかもしれませんね^^

源義経チンギスハン説〜まとめ〜

さて、ここまで源義経=チンギスハン説を検証してきましたが、いかがでしたでしょうか?

そもそもこの説を唱えたのはドイツ人医師のシーボルトでした。

  1. 家紋や弓矢、年代など2人には共通点が多い
  2. 多分本当に義経は衣川で自害はしていない
  3. 当時でもモンゴルに行く方法はある

の3つがポイントでしたね。

日本史の中では他にも、信長は実は生き延びていたとかありますが、流石にそれはないかと思います。

ただ、チンギスハンになったかどうかまではわかりませんが、源義経が難を逃れて北へ向かった事は確かな事なのかもしれません。

あなたはどう思いますか?
コメントお待ちしております。