「マケドニアの・・・」といえば、この人。

あなたはもう連想していると思います。

そう、「マケドニアのアレキサンダー大王」ですね。

アレキサンダー大王といえば、西洋史で学生の時に習う歴史上の人物です。
大人になって何年も経ち、歴史と遠ざかってしまいましたが・・・

アレキサンダー大王の死因の謎、歴史的になぜこんなに有名なのかご存知でしょうか?

アレキサンダー大王の死因の謎

アレキサンダー大王の死因は何か、あなたは覚えていますか?

覚えてるよ、というあなた。
一応念のため答え合わせをすると…

アレキサンダー大王は遠征後に自国でマラリアという病気に10日間うなされた挙句亡くなったとされています。

アラビア遠征計画を立てている中起こった出来事だったので、亡くなった本人は遠征失敗を相当悔やんでいたことでしょうね。

享年32歳
昔の時代といえど、亡くなるには早すぎます。

 

しかし、一方ではこの事実が覆る説が出て来ます。

アレキサンダー大王は毒殺されたのではないかという説です。

確かに、歴史の授業で教えられた事実には私も腑に落ちない点があります。

川の水を飲んでマラリアに感染したこと、若すぎる死…

水の浄化技術はない時代ですから川の水を飲んでマラリアに感染するのはよくあることだと思います。
しかしアレキサンダー大王はいつもその水を飲んでいるはずですし、ある程度抵抗力は持っているはず。

どうして遠征の計画を立ててるこのタイミングで?

と、思っちゃうんですよ。

確かに遠征後の疲れで体力は落ちてたかもしれませんが、戦で水を飲む時なんてもっと汚い水を飲んでた可能性があると思うので…
アレキサンダー大王は誰かに殺されたというのがしっくりします。

また、人が多く集まる宴会の後に病気で熱が出てうなされ続けたことですし。

英雄で名を馳せていても、誰もが皆味方とは限りません。
よって、誰かの陰謀による毒殺だと私は思います。

さて、歴史的にも有名な人物であるアレキサンダー大王。

多くの逸話が残されています。

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アレキサンダー大王の逸話

アレキサンダー大王は英雄だけに武勇伝が現在も残されていますが、そのいくつかを紹介しましょう。

1.アレキサンダー大王の教師は哲学者のアリストテレスだった

13歳のアレキサンダー大王は学校で授業を受けていました。
もちろん他の同じ年代の子たちと一緒に。

家庭教師を立てているのかと思っていたら、意外と庶民的だったのですね。

しかも勉強を教えてもらっていたのが、かの有名な哲学者であるアリストテレス

アリストテレスはアレキサンダー大王に倫理学、政治学などを教えていました。

アレキサンダーはアリストテレスのことを恩師として慕っていたそうです。
アレキサンダー大王が、権力や武力によって力を手に入れるというよりも学問を重視していたというのが受け取れますね。

また、アレキサンダー大王はアリストテレスについてこう言っています。

「アリストテレスからは良き生を受けた」と。

それだけ信頼していたということは、学習内容に秘密があるのでしょうか?

アレキサンダー大王にこれだけ慕われているということは、アリストテレスもまた、人格的にも非常に魅力的な人物であったということが分かりますね。

2.敵軍の捕虜も丁寧に扱った

イッソスの戦いが紀元前333年にありました。

イッソスの戦いとは、ペルシアで起こった戦いのこと。
対戦相手はペルシア王ダレイオス3世です。

やはりアレキサンダー大王の軍が強く、ダレイオス3世は自分の命が何より優先だったのか、王位や家族を全てを捨てて逃亡しました。
(イッソスの戦いは後ほどまた説明しますね)

残された家族がかわいそう….

案の定、その残された家族(王の母親、王の妻、子供である王子と王女)は捕虜になりましたが、アレキサンダー大王は敵軍の王族にも関わらず丁寧に扱っていました

 

ある日、アレキサンダー大王はダレイオスの家族に会いに、側近のヘファイスティオンを連れて行った時のこと。

ダレイオス3世の母は、アレキサンダー大王とヘファイスティオンの服装がとてもよく似ていたため、どっちがアレキサンダー大王なのかとても判断に迷いました。

迷った挙句、側近のヘファイスティオンをアレキサンダー大王と勘違いしてひれ伏してしまいました。
ヘファイスティオンも体ががっしりと大きく、とても美しい顔立ちだったのです。

自分の間違いに気づいたダレイオス3世の母は「なんて事をしたか」と取り乱してしまいました。
分からなかったとはいえ、王様と間違えたら自分の命や家族の命もどうなるか分かりませんからね。

 

しかし、アレキサンダー大王はダレイオス3世の母の間違いを責めませんでした。

ヘファイスティオンもとても武力に長けた素晴らしい人物でしたので、アレキサンダー大王は「男もまたアレキサンダーなのだから」と笑って許したのです。

アレキサンダー大王の心の広さと、大王が認めたヘファイスティオンの武力がどれだけ優れたものであるかが伺えますね。

3.アレキサンダー大王は国によって違う呼び方をしている

3つ目は彼の偉大さが世界中で認められていることがわかるエピソード。

今まで呼んでいる「アレキサンダー」は英語。

他にはギリシア語では「アレキサンドロス」、スペイン語で「アレハンドロ」という名前もアレキサンダー大王に由来しています。

 

ここまでは違う呼ばれ方をしていてもアレキサンダーの原型を留めていますが、アジアへ来ると誰のことなのか分からなくなります。
どんな呼ばれ方をしてるのかというと…

アラビア語では「イスカンダー」、中国語で「亚历山大(発音はyà lì shān dà)」。

イスカンダーについてはどこかで似た名前を聞いた気がしませんか?

そうです、宇宙戦艦ヤマトに出てくる惑星の名前「イスカンダル」です。

「イスカンダル」は東南アジアの呼び方で、宇宙戦艦ヤマトもアレキサンダー大王の語源を意味するということで名付けたそう。
優れた科学を持った国という設定だったから、偉大な強さを誇るアレキサンダー大王の名を取ったのでしょうね。

 

ちなみにインドのスカンダ神もアレキサンダー大王の名前に由来しているとか。
インドでは軍神として崇められていますから、きっとアレキサンダーという名を取っていたのかもしれません。

そしてスカンダ神はヒンドゥー教から仏教に入り、仏教名は「韋駄天」

韋駄天は足の速い神様として知られていますよね。
アレキサンダー大王も足が速かったのでしょうか?

こうして、アレキサンダー大王の功績が歴史上に残り、「アレキサンダー大王のように立派な人間になってくれるように」と願った親たちがアレキサンダーの名前をつけていった、ということです。

 

こうして世界に名を馳せたアレキサンダー大王。

名前の由来でアジアまで拡がっていますが、やはり大きく広がるきっかけとなったのが東方遠征ではないでしょうか?

東方遠征

アレキサンダー大王は父親であるフィリッポス2世の暗殺を機に王位を継承。

王位を継承したとき、アレキサンダー大王の年齢は20歳でした。
私たちでいうとちょうど成人の年齢ですね。

20歳という年齢で一国の王になることって相当なプレッシャーだったと思います。
しかし、彼はそんなプレッシャーにも負けず、数々の戦績を残すのです。

 

フィリッポス2世が亡くなってから、ギリシアは王座を巡って各地で戦争が後を絶ちませんでした。

戦争を終わらせ、ひとつにまとめなければ….

アレキサンダー大王は争いを鎮めるためにマケドニアをまず制圧しました。

そして、東方遠征に乗り出します。

目的は、当時の大国であるペルシアを手に入れること

当時のギリシアはペルシアからいつ攻め入られてもおかしくないくらいの干渉を頻繁に受け続けていました。
それは先代の王フィリッポス2世の悩みのタネでもあったし、なんとかしてペルシアを制圧したいと考え続けていたのです。

父のそんな思いをアレキサンダー大王は引き継いで、ペルシアに対して3度の戦争を仕掛けました。

グラニコスの戦いイッソスの戦いアルベラの戦いです。

グラニコスの戦いでいきなりペルシアに勝ち、イッソスの戦いでは先ほど述べたとおりダレイオス3世を逃亡へと追い詰め、アルベラの戦いで完全にペルシアは敗北。
逃亡していたダレイオス3世は家臣によって殺され、アレクサンダー大王のものとなりました。

3回戦って大国を手にするってなかなかできないものです。

その後もさらに領土を広げるため、遠征を続けます。

 

しかし、この勢いは長く続くかと思ったら、そうはいきません。

アレクサンダー大王の率いる軍は中央アジア進出、インダス川の辺りで軍全体の疲れが目立ち士気が落ちてきたため、やむを得ず引き返すことに。

そして、その後アレクサンダー大王は道半ばで亡くなってしまいます。

さぞかしアレクサンダー大王本人は死を悔やんだことでしょう。
だって、大国ペルシアを制圧した上にまだまだ遠征範囲を拡大したのですから。

それにしても…
アレキサンダー大王ってすごいですよね。

もし兵士の体力も衰えていなかったら本当にアジア侵略も成功しそうな勢いでしたから。

なぜ、こんなにも強大な力を持てたのでしょう?

絶大な力を持てた理由は?

父親の遺志を継いで王を継承したアレキサンダー大王。

確かに王としてのリーダーシップも重要ですが、アレキサンダー大王は戦士としての実力があったことも、ペルシア戦略を成功させた原因でしょう。

強靭な肉体と体力、リーダーシップ、戦に勝つための戦術を常に考え続けること
これらは一国の領土を得るための戦いで必要なものです。

しかし、私はそれだけではないと思っています。

アレキサンダー大王が軍事に優れていても、それ以上に人格の良さが、幾度の辛い戦いが続いても兵士らは頑張って乗り越えることができたのではないでしょうか?

兵士らに尊敬されないと、戦争の途中で兵士が逃走するなどの裏切りが発生し、自分の軍が混乱する原因にもなりかねません。

捕虜となった敵国の王族も丁寧に扱ったエピソードもありましたし。
本当に素晴らしい人物だったことが分かりますよね。

絶大な力を持てたのは、アレキサンダー大王の人柄であると私は考えています。

アレキサンダー大王のお話をしました。

では、長くなりましたのでまとめます。

アレキサンダー大王まとめ

  • アレキサンダー大王の死因の謎

アレキサンダー大王は川の水を飲んだことでマラリアで10日間うなされた挙句亡くなったとされていました。

しかし、個人的には誰かの陰謀によって暗殺されたのではないかと主張します。
なぜなら毎日飲んでいるはずの水を飲んで若くして亡くなったことと、次の遠征計画を企ててるなか、人の集まる宴会で亡くなったからです。

 

  • アレキサンダー大王の逸話

アレキサンダー大王の逸話については3つのエピソードをお話ししました。

 

1つ目のエピソードは、アレキサンダー大王はアリストテレスの教え子だったということ。

アレキサンダー大王はアリストテレスの事をとても慕っていました。

2つ目のエピソードは敵国の王ダレイオス3世の親族を捕虜として捕えた時。

敵国の王の母親は同行してきた家臣とアレキサンダー大王の見分けがつかず、大王の側近にひれ伏しました。
しかしアレキサンダー大王は間違いを責めることなく、ダレイオス3世の親族を丁重に扱ったというお話です。

3つ目のエピソードはアレキサンダーという名前が呼び方を変えて世界各地に広がっていること。

アレキサンドロス、イスカンダー、イスカンダル等々・・・
アレキサンダー大王のように名声のある人物、偉大な人物になってほしいという、子を持つ親の願いによって名づけられていることがわかります。

  • 東方遠征

父親のフィリッポス2世の暗殺で王を継いだアレキサンダー大王は、次期王を狙う輩の混乱をまず制圧。
その後大国ペルシアに3度の戦争を挑み、3度勝利しました。

それからさらにアジア進出を狙ってインダス川流域まで進みますが、兵士の疲れが積もる様子を見てやむを得ず兵を撤退。
その後志半ばで死を迎えます。

  • 絶大な力を持てた理由は?

アレキサンダー大王のリーダーシップと王自らの戦士としての実力も挙げられます。
しかしそれだけではなく、アレキサンダー大王の人柄が兵士たちを尊敬し、絶大な力を維持し続けたと述べました。

今回ご紹介したアレキサンダー大王。
いかにすごい人物かあなたにご理解いただけましたでしょうか?

現代、戦争はなくとも、社長や総理大臣や大統領などリーダーシップを取る人物はいくらでもいますが…

アレキサンダー大王のような素晴らしいリーダーが現れてくれたらいいのにと願うばかりです。

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