足利尊氏が逆賊だというのは、南朝側の子孫たちの醜聞作戦ではなかったのか?という疑念があるのをご存知でしょうか?

果たして足利尊氏は、ほんとうに逆賊だったのでしょうか?

そこで今回は

  • 足利尊氏は逆賊ではなかった?
  • 尊皇攘夷との関係
  • 足利尊氏が報復を受けた理由

などについてお伝えしていきます。

足利尊氏は逆賊ではなかった?

後醍醐天皇の子孫たち、つまり南朝側からの視点では足利尊氏は「逆賊」と描写されます。

端的に言えば、これが後世の仇敵に仕組まれた作り話だったのではないかという疑念です。

 

前代未聞の、同時期に二人の天皇を頂くという事態を招いた責任を足利尊氏になすりつけ非難する材料にしたとするなら、それはつまり南朝側の報復行為ではなかったのでしょうか。

またこれにはもう一つ、その後の政治・社会情勢に関わる利点がありました。

尊王攘夷というスローガン

江戸末期、「尊王攘夷」という思想がさかんに叫ばれ、時代を動かす潮流となっていきます。

これがそのまま、時代が変化していき戦争に向かう流れになったとき、民衆を一つにまとめるためのスローガンとなりました。

 

それまで封建国家だった民衆には、いきなり国民国家などと言われてもピンときませんよね。

だから社会現象ともいえる尊王攘夷は、民衆に「国民」という意識を植え付けるのにも大いに役立ちったのです。

というのも、開国したことで外国からの脅威が押し寄せて来る中、戦力・技術力において勝る諸外国に立ち向かうために、国民が一丸となって立ち向かわねばならないという危機感があったからです。

 

また尊王攘夷は、足利尊氏の逆賊ストーリーとうまく同調させることができしました。

『足利尊氏のような逆賊は非国民であるから、真っ当な国民ならお国のため、天皇のために持てる物は命さえも差し出すのが当たり前』だと言うのです。

これほど国家にとって都合のよい建前はありません。

民衆を政府の言いなりにすることができたというわけです。

 

ドラマなどで、官憲が庶民にやけに威張り散らしているシーンを観たことがありますが、現代でいうならパワハラの最たるものだと言ってもいいでしょうね…

しかもそれを誰も不当とは言えない時代でした。
もし逆らえば逆賊・非国民というレッテルを貼られます。

少しでも足利尊氏を擁護する発言をすると罵倒され、社会的な制裁さえ受けた風潮だったと伝え聞きます。たとえ間違っていると思っても、それを口に出す勇気は、並の人間にはありません。

 

江戸幕府という武家政権を改め天皇中心の政権になったとき、天皇の絶対主義性を示すのに、逆賊の足利尊氏は悪というサンプルとして利用したのです。

なんとも非道な話です。

 

この当時、足利尊氏の名前は、民衆にとってひどく屈辱的な響きを持っていました。

報復というには卑劣な手段を選んだものです。

足利尊氏の謎!なぜ報復された?

ところで戦の天才足利尊氏は、南朝の子孫になぜこれほどまでの報復を受けることになったのでしょうか?

 

そもそも当時の戦勝者は、頼朝や家康のように復讐を恐れ禍根を断つために敵方の一族郎党を根絶やしにするのが通例ではなかったでしょうか。

少なくとも血縁者をそのままにはしておかないと思います。

ですが足利尊氏は違いました。

 

不倶戴天の敵の後醍醐天皇でさえ、最後まで追い詰めて討ち取ることはしていませんし、逃亡先を襲うこともしていません。

それどころか、後に後醍醐天皇が崩御したとき、足利尊氏は大変なショックを受けたといいます。
そして後醍醐天皇の菩提を弔うために天龍寺を開きました。

情に厚いという言葉がありますが、正に足利尊氏のような人物に使う言葉なのかも知れませんね。

 

そんな足利尊氏なので、彼の行く処、なぜか敵が寝返って味方になることもしばしば。
当然配下たちからも信頼が厚かったようです。

というのも足利尊氏には物欲がほとんど無く、自分が得た物や領地を気前よく部下たちに分け与えたからというのが大きな理由だろうと云われています。

また自分を裏切った者にさえ温情をかける始末です。

人が好過ぎる武将

元来足利尊氏という人は、武将というには人が好過ぎました。
というより、武将にはまったく不向きな人柄でした。

自身の出世に興味がなく、金や物にも執着しない。

本人は兄の死により、仕方なく家督を継いだだけという意識でした。

なので最初に鎌倉幕府の将として、後醍醐天皇の倒幕軍と戦うことを命じられた時から不承不承というものでした。

この時足利尊氏は、父の喪中であることを理由に一度は出陣を辞退したというエピソードが残っていますが、武人にはあるまじきエピソードかも知れませんね。

 

それなのになぜか戦となると天才肌の足利尊氏は、その後の戦もどんどん勝ち進み、とうとう将軍の地位にまで昇り詰めてしまいます。

戦の天才ということは疑いのないことです。

なにしろ承久の乱、二度の蒙古襲来などがあったにも関わらず、153年間ほとんど無敵だった鎌倉幕府をいともあっさりと滅ぼしてしまったほどですから。

ただ、そうなっても足利尊氏の本心は「早く隠居したい」でした(笑)

 

そうした足利尊氏ですが、当時の多くの武将たちとは違い自分を裏切った重臣だけでなく敵にも冷酷非情な扱いができませんでした。

またリーダーにありがちな、猜疑心から心を病み、同胞に非情になるということもありません。
むしろ配下に対しては、とても責任感のある頼りがいのあるリーダーでした。

戦乱の世にありながら、人が好過ぎる武将、それが足利尊氏でした。

 

この人柄、他の武将や家臣たちからすれば桁外れの「寛容さ」あるいは「弱さ」と映ったかも知れませんね。

いずれにしても当時の武将にはあるまじき人柄だったことは確かでしょう。

 

しかしこの、人の好さが裏目に出ました。

生き残った敵を討ち果たさなかったために、敵は長い時間をかけて恨みを募らせ、力を蓄える猶予がありました。

やがて来るだろう復讐の機会をじっと待ったのです。
それが逆賊という汚名を着せる醜聞作戦でした。

これが見事に功を奏し、現在に至るまで続いた足利尊氏は逆賊というイメージが出来たのです。

 

換言すれば足利尊氏が自ら招いてしまった結末とも言えますが、それにしても人の恨みは恐ろしいものですね。

しかも他にも足利尊氏が自分で蒔いてしまった種はあり、やはり悲劇的な結末を迎えています。

人の好さが招いてしまった悲運

こうして敵に情けをかけ見逃してしまう将軍であったため、その子孫に復讐の機会を与えてしまった足利尊氏ですが、悲運はそれだけではありませんでした。

配下の者たちに信頼され温情をかけてきた足利尊氏なのですが、それさえも次第にそんな配下たちの中に、足利尊氏の温情に増長する者が出てくる萌芽となっていたのです。

いつの頃からか内紛が絶えなくなっていました。

弟、直義と重臣の対立。
また自身と直義との不協和音が、徐々に、しかし決定的な亀裂となってしまったのです。

 

ところで、足利尊氏は戦の天才ではありますが、その他の面ではまるで駄目で情けない人物だったという数々のエピソードが残っています。

そんな足利尊氏を精神面でも実務の面でも陰で支え、サポートしてきたのが弟と重臣たちでした。

この弟や重臣たちとのトラブルがどれほどの打撃だったか推し量れるというものです。

 

結局、直義と対決することになり、成敗するという事態を招いてしまいました。

これは己のためというより、息子に将軍職を継がせたいがための争いになってしまいました。

ちなみに、直義は投獄中に病死しました。

 

あれほど己の出世や資産に関心が薄かった足利尊氏ですが、さすがに子どものためには欲が出たようです。

そしてそれが原因で、あれほど対立していた南朝と和睦する事態にもなりました。

こうして足利尊氏は己の望み通り、息子に将軍職を継がせることはできたものの、なんとも後味の悪い結末でした。

 

後世、南北朝という60年間を多方面から研究する人が増え、ようやく足利尊氏が戦前の評判ほど悪人ではないとする人が増えました。

しかしそれでも今なお、足利尊氏・逆賊という名称がセットで語られることは少なくありません。
ですがそれもまた歴史なのでしょう。

足利尊氏は逆賊だったとされた時代があった…

それだけのことなのかも知れません。

足利尊氏は逆賊ではない~まとめ~

今回の内容とまとめますと

  • 足利尊氏が逆賊であるという醜聞は、後醍醐天皇の子孫たちが報復のために仕組んだのではないか?
  • 尊王攘夷というスローガンと同調し、逆賊の足利尊氏は悪というサンプルにした。これは国民を一丸とし政府の言いなりにするのに役に立った。
  • 足利尊氏が報復されたのは、人が好過ぎて敵を赦したことが発端だった。

となります。

 

こうして見ると、足利尊氏だけでなく後醍醐天皇でさえも、随分人間臭く感じますね。

好きじゃないのになぜか戦争に勝ってしまう足利尊氏。
だけど人を殺したくないないばかりに、恨みだけ買って後で自分が報復されてしまう人の好さ。

一方後醍醐天皇の方は、ワガママから天皇制度を自分に都合良く変えようとした困ったちゃん。
だけどしぶとさは天下一品、何世代もかかってとうとう恨みを晴らす。

規模を縮小したら、我々の身の回りにもいますよね、こんな人たち^^;