死海そばの洞窟から発見された死海文書は、20世紀の考古学で最大の発見といわれました。

死海文書は誰が何のために書き、なぜそこに残されたのでしょうか。
そこに書かれた独自の終末思想は、一体何を意味しているのでしょうか。

キリスト教の誕生と関係があるともいわれる死海文書ですが、その詳細は謎に包まれています。

これからそんな死海文書について見て行きましょう。

死海文書はどんな内容なのか?

死海文書の多くが、ユダヤ人の使うヘブライ語で書かれていました。

その内容を分類すると、大きく3つに分けることができます。

1. 聖書

1つ目は聖書です。

聖書には旧約聖書と新約聖書がありますよね。
これはキリスト教における聖書の考え方で、旧約聖書はキリスト生誕前を、新約聖書はキリスト生誕後を記したものです。

ユダヤ教の聖書は旧約聖書と同じですが、イエスを救世主とみなさないため新約聖書は認めていません。

聖書は元々、大部分がヘブライ語で書かれていました。

しかしユダヤ人が迫害を受け各地に離散すると、ヘブライ語の聖書は失われて行きます。
死海文書が発見されるまで、ヘブライ語で書かれた聖書で最も古いものは930年頃のアレッポ写本でした。

死海文書は紀元前2世紀から紀元後1世紀頃に書かれたものと見られ、最古の記録が一気に1000年もさかのぼったのです。

死海文書の聖書の内容は、その後の聖書と大きな違いはありませんでした。
つまり、1000年経ってもほぼそのままの内容が伝わっていたのです。

2. 聖書外典・偽典

2つ目は聖書外典・偽典です。

外典というのは、一時正典として扱われたこともあったものの、聖書から外されたものをいいます。
偽典は、著者名を偽っているとみなされたり、内容が不確かとされるものです。

3. 教団関連文書

3つ目は教団関連文書です。

死海文書の中でも注目すべき、謎の多い部分です。
これには教団の規定や占星術、そして終末論など多様な内容が含まれます。
聖書にも無い、他では見られない独自の終末思想も書かれています。

「光の子」と「闇の子」による、40年に及ぶ人類の最終戦争を記した「戦いの書」。
亡びの矢によって地上が炎で焼き尽くされる、そんな終末が書かれた「感謝の詩篇」。

これは将来の核戦争による人類滅亡を予言したもの、といった解釈もあります。

ですが死海文書を書いた人々は、最終戦争は遠い未来ではなく、すぐに起こると考えていたようです。

こちらの動画でも詳しく解説されていますね。

ではこの死海文書、誰がどのようにして発見したかご存知でしょうか?
その発見は、2000年の時を超えた奇跡といえるかもしれません。

死海文書発見の経緯とは?

死海の北西、現在のイスラエルの地にヒルベト・クムランという遺跡があります。
1946年から47年に掛けてのこと、クムラン遺跡の近くで遊牧民族の羊飼いの少年達が歴史的な発見をします。

群れからはぐれた羊を追って岩山を歩いていた時、彼らは洞窟を見付けました。
1人が何気なく洞窟に石を投げ入れたところ、何かに当たって割れる音が聞こえたのです。

少年は洞窟に入ってみましたが、そこにはいくつかの壷があり、蓋を開けてみると中に巻物が入っていました。
それが後に死海文書や死海写本と呼ばれるものでした。

この段階ではまだ、それがどれ程価値のある物かは分かりません。
発見した巻物は、しばらく自分達の暮らすテントのポールに吊り下げていました。

しかし貧しい生活をしていた彼らは、巻物を売ろうとベツレヘムの商人を訪ねます。

最初に持ち込んだ商人には、無価値だと言われ突き返されてしまいましたが、諦められずカンドーという別の商人に持ち込んでみました。
カンドーはこの巻物が価値のあるものだと見ると、シリア正教会のサミュエル大主教に買い取ってもらいます。

この時の調査などから、死海文書が紀元前2世紀頃に書かれた、歴史的価値の非常に高い物であることが分かってきます。

その後の探索によって、1956年までに11の洞窟から1000近くの文書が発見されました。
最初に発見された死海文書は、巻物の形がしっかり残っているものでした。

しかしその後に発見されたのは大量の断片で、その内容の解析には長い時間を必要としました。

死海文書が発見された頃のパレスチナでは、ユダヤ人とアラブ人の内戦の後、イスラエルの独立宣言をきっかけとして第一次中東戦争が勃発しました。
またその後も続いた戦争で、調査は一筋縄では行きませんでした。

そんな困難がありながらも、しだいに死海文書の全貌が明らかになって行きます。

では死海文書を書いたのは一体誰でしょうか?

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死海文書は誰が書いたのか?

死海文書はクムラン遺跡の地で暮らしていた、クムラン教団の信徒たちが作成したという説が有力です。

クムラン教団とは何者でしょうか?

彼らは紀元前後に存在したというユダヤ教の一派、エッセネ派の人々と考えられています。
エッセネ派は世俗を離れて共同生活を営み、厳格に戒律を守っていたといいます。

そんな彼らが暮らしていたのが、クムランの荒野でした。

彼らクムラン教団を初期のキリスト教徒と考える人もいて、イエスがエッセネ派に属していたという説も唱えられています。
さらに死海文書に、新約聖書と類似した記述があるという指摘もされています。

ローマ帝国に支配されていたユダヤ人は、西暦66年に反乱を起こします。
この反乱はユダヤ戦争と呼ばれますが、エッセネ派の人々も戦闘に参加していました。
彼らはこの戦争こそ最終戦争だと考えていたのです。

しかしユダヤ人はローマ帝国の前にあえなく敗退し、ユダヤ教の中心だったエルサレム神殿は火を放たれ破壊されました。

ユダヤの強硬派は切り立った山の上に築かれたマサダ(要塞)に2年もの間篭城して抵抗しますが、ついに陥落しそうになると最後は集団自決するのです。

ユダヤ人はその後もローマ帝国に反乱を起こすものの失敗し、ユダヤ教は徹底した弾圧を受けることになります。
彼らが暮らしていた場所も、ユダヤ人と敵対していたペリシテ人から名前を取って、パレスチナに変えられました。

ユダヤ人は住む場所を失い、各地に散ることになります。

そのような状況の中で、クムラン教団の人々は文書を後世に残すために、洞窟に隠したと考えられます。

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死海文書は絶好の資料~まとめ~

死海文書について見てきました。
これまでの内容を簡単におさらいしましょう。

  1.  死海文書は、羊飼いの少年によって発見された2000年前の巻物です。
  2.  その内容は「聖書」と「聖書外典・偽典」、独自の終末思想などが書かれた「教団文書」からなります。
  3.  文書を記したのは、ユダヤ教エッセネ派のクムラン教団と見られていて、彼らがキリスト教の始まりという説もあります。

死海文書と新約聖書の関係、エッセネ派とイエスの関係など、解明されればキリスト教が誕生した過程が明らかになるかも知れません。
また聖書がどのように成立して行ったのかを辿るのにも、絶好の資料です。

まだまだ謎の多い死海文書ですが、研究が進んで行けばきっと新たな発見があることでしょう。