世界史の中でも、イスラム王朝は色んな王朝があります。
このイスラム史、たくさんあって覚えきれない分野でもありますね。
ウマイヤ朝、アッバース朝、ファーティマ朝、セルジューク朝などなど……。
本当にたくさんあります。
その数ある王朝のなかのひとつ、ゴール朝。
あなたはゴール朝といえば何を連想するか、すぐに答えられますか?
一見ウマイヤ朝やアッバース朝より陰が薄いように見えますが……。
これから一緒にゴール朝についておさらいしていくと、ゴール朝といえば何か?という連想がしやすくなります。
- ゴール朝とは?
- ゴール朝から独立した奴隷王朝
- マルムーク制度について
- 奴隷王朝初代の王アイバク
さぁ、一緒に勉強してみましょう!
ゴール朝とは?
ゴール朝は現在のアフガニスタン中部にあるゴール地方が1148年にカズナ朝から独立した国です。
このゴール朝の王はギヤースッディーン・ムハンマド。
なかなか勢力が強くて、1186年に属していたカズナ朝を滅ぼし、イランまで支配しました。
その後、さらにイスラム教布教を目的としてインドまで領地を広げます。
1192年にはインドに攻め入るゴール朝と、それを阻止するインドのラージプートの王たちが率いる軍との争い……タラーインの戦いでラージプート軍を撃破。
北インドの領地を手に入れます。
カズナ朝を滅ぼしてからここまで、たった6年で……。
さらに、1203年。
この時、ギヤースッディーン・ムハンマド王が病死したことで弟のシハーブッディーン・ムハンマドが王位を継ぎます。
シハーブッディーン王は兄の遺志を引き継ぎ、インド領地の拡大を目指し……ベンガル地方にあるパーラ朝を滅ぼしました。
パーラ朝は仏教を保護する王朝。
ゴール朝がパーラ朝を滅ぼしたということは、イスラム教に仏教は負けてしまったことを意味します。
ゴール朝の軍は、パーラー朝にあった仏教の僧侶を養成する学校、ナーランダー僧院も容赦無く破壊してしまいました。
こうして、ゴール朝はインドの遠征に成功。
ベンガル地方等北インドの統治を部下であるアイバクに任せて、王シハーブッディーンは首都カズナへ戻ります。
そして強国の王のまま人世を終えるのかと思いきや、そうは問屋が卸しませんでした。
なんと兄のギヤースッディーンの代から長年対立していた西トルキスタンにあるホラズム・シャー国や、中央アジアのモンゴル系の王朝であるカラキタイに攻められてしまったのです。
その結果、領地のひとつでいましたのホラーサーンの大部分を失ってしまったのですね。
シハーブッディーンは何度もホラーサーン奪還を試みました。
しかし1206年に何者かによってシハーブッディーンは暗殺されてしまい、結局奪還できぬまま生涯を終えてしまったのです。
シハーブッディーンはシーア派の一派に殺されたとされています。
確かに勢力が衰えてきているとはいえ、何度も奪還を試みるゴール朝はホラーサーンの地域にとっては脅威ですよね。
おそらくラズム・シャー国の権力者が、刺客にシハーブッディーンを暗殺するように命じたのではないかと推測します。
シハーブッディーンが暗殺された後、ゴール朝は分裂。
アフガニスタンとイラン地方のゴール朝はホラズム・シャー国に滅ぼされ、北インド地方のアイバクが治める領地は奴隷王朝として存続しました。
そもそも奴隷王朝って何?と思ったあなた。
後ほど詳しく解説しますね。
さて、ゴール朝から独立して北インドに残った奴隷王朝。
この奴隷王朝と呼ばれる王朝が、その後どうなったか気になりませんか?
ではもう少し、ゴール朝から独立した奴隷王朝についてスポットを当ててみましょう。
ゴール朝から独立した奴隷王朝
さて、奴隷王朝と聞いた時、はてな?と思ったことでしょう。
奴隷王朝と聞くと、ゴール朝が奴隷王朝をぞんざいに扱っているイメージがあるのですが……。
ゴール朝から独立しているので実際は関係ありません。
奴隷出身のアイバクがムハンマド王の命によって国を治めているので、むしろ信頼されていたといえます。
では、どうして奴隷王朝なんて名前がついたのでしょうか?
奴隷王朝という名前の由来は、その国を治めたアイバクや、アイバクから王を引き継いだ後継者たちが、奴隷兵士出身だったためです。
「マルムーク」と呼ばれ、奴隷身分から解放された者のことをいいます。
そのため別名マルムーク朝とも呼ばれています。
イスラムの奴隷はちょっと特殊で、コーランやイスラム法を学び軍事訓練をさせて奴隷身分から離れて軍人になるというシステムがあるんですね。
ゴール朝そのものは分裂したのちに滅んでしまいましたが、ゴール朝から独立した奴隷王朝は1290年まで続きました。
しかしこの奴隷王朝。
1206年から1290年まで続き、5人の王のうち実際に王の後継者が奴隷出身である者が3人だけだから奴隷王朝とは言えないんじゃない?
という主張があるようです。
ですが、僕はそうは思いません。
そりゃあ、確かに5人全員が奴隷出身なら尚良いでしょうけど。
しかし、奴隷王朝が約85年という短い期間であること。
その短い期間で5人の王様のうち3人が奴隷出身なら、奴隷王朝と呼んでもいいと思うんです。
ところであなたはマルムークという解放奴隷の制度について不思議に思いませんか?
だって、奴隷出身の彼らは自ら志願して解放奴隷になるという手段ではないのです。
詳しく説明しますね。
マルムーク制度について
奴隷は一番身分が低く、奴隷を買った主の命令は絶対。
公職に就くことや結婚をする自由も制限されています。
しかしイスラム社会では、奴隷を解放することを善行として認められ、死んだら天国へ行くことができると信じられていました。
だから奴隷を買った主は軍人教育に力を入れて奴隷をマルムークにしていたのですね。
天国に行けるから。
ただ、解放奴隷とはいえど、完全に奴隷から解放されたわけではありません。
奴隷は主人によって保護されているという関係は存続し続けているものなのでした。
そのため、ある程度お金を持っている有力者は奴隷を購入して軍人教育をさせ、戦の時に兵士として動員させる。
そうやって主人は有力者として力を得ていたのですね。
良いのか悪いのか……。
現在の感覚からは判断できないところですね。
アイバクを含む3人の王も、主が軍事教育を受けさせることによって解放奴隷となりました。
そう思うと、このイスラム社会の奴隷制度は主従関係の強さを感じ取れると思います。
下の立場である奴隷が君主に恩を持ってると裏切りもされにくいでしょうし……。
そんな奴隷出身の王のなかでも初代の王。
アイバクはどのような生い立ちでどうやって奴隷王朝の最初の王になったか?
もう少し詳しく見てみましょう。
奴隷王朝初代の王アイバク
アイバクは中央アジア出身の遊牧民でした。
アイバクという名前は彼が属する遊牧民の言語、テュルク語で「月の主」という意味です。
ということは、月のきれいな夜に生まれたのですかね?
ロマンチックな名前です。
ある時アイバクは奴隷として名家に買われ、軍人教育を受けました。
その後名家の主人が亡くなり、その後商人に買われ、マルムークとなり宮廷に仕えます。
初めは厩舎係に配属されましたが、とても有能だったんでしょう。
その後将軍となってゴール朝のインド方面進出に従軍。
1203年にパーラ朝を滅ぼした後、ゴール朝の王ムハンマドの命でインド地方の支配を任せられます。
大出世ですね。
ちなみに、その範囲はインドの奥地の未開地域まででした。
その後、ムハンマド王が暗殺されてからはゴール朝から独立。
インドのみ支配する初のイスラム王朝を築き上げました。
それが奴隷王朝です。
ムハンマド王が暗殺されてからゴール朝は分裂し混乱状態の中……。
アイバクはインド北西部からパキスタン北東部にあるパンジャーブ地方を併合し、権力者としてさらなる支配をしていきます。
1193年から6年の期間をかけて大規模なモスクを建てたことにより、イスラム教がインドを支配するという象徴をより強めたといえますね。
このようにアイバクは奴隷王朝でたくさんの功績を残しましたが、1210年にポロ競技中の落馬事故で急死。
後継者としてアイバクの息子、アーラーム・シャーが国王となりました。
しかし、アイバクの娘婿であるイルトゥトゥミシュと後継者争いとなり、殺されてしまいます。
アーラーム・シャーが王として続いた期間はたった1年。
その後は奴隷王朝が終焉するまでイルトゥトゥミシュ家が王家を世襲しています。
しかしたとえアイバク家が途絶えても初代の王はすごいことには変わりありません。
アイバクは生前、1200年に巨大な塔を建立しました。
その塔の名前はアイバクを尊敬する呼び名としてクトゥブ・ミーナールと呼ばれています。
また、アイバクがイスラム文教地区の基礎を築き、後継者となった王たちが整備し完成。
その地区の名前もまた、初代の王アイバクの名を取ってクトゥブ地区と呼ばれ、現在は世界遺産として残されています。
このように、建物や地名に名前が残されることって名誉なこと。
初代の王、アイバクは人々に尊敬される存在だったからこそ名前として残されたんじゃないかと、僕は思います。
さて、今回はゴール朝についてお伝えしてきました。
最後におさらいをしていきましょう。
まとめ
ゴール朝とは?
ゴール朝の王、ギヤースッディーン・ムハンマドは1186年に属していたカズナ朝を滅ぼし、イランだけでなくインドまで領地を広げました。
ギヤースッディーン・ムハンマド王が病死した後は弟のシハーブッディーン・ムハンマドが王位を継ぎ、インド領地の拡大を引き継ぎます。
そしてインド地方の統治を部下であるアイバクに任せて、王シハーブッディーンはゴール朝の首都カズナを治めますが……。
ゴール朝は長年対立していたホラズム・シャー国や、カラキタイに攻められ、領地のひとつであったホラーサーンの大部分を失ってしまい……。
シハーブッディーンは奪還を試みるも、それが叶わぬまま何者かによって暗殺されました。
推測ですがホラズム・シャー国の刺客によって殺されたのではないかと思います。
その後ゴール朝はホラズム・シャー国によって滅ぼされましたが、北インド地方は奴隷王朝として存続したのですね。
奴隷王朝
奴隷王朝という名前の由来は、その国を治めた王たちのうち3人が奴隷兵士出身だったためです。
奴隷から解放された身分を「マルムーク」と呼び、別名マルムーク朝とも呼ばれています。
5人の王のうち実際に王の後継者が奴隷出身である者が3人だけだから奴隷王朝とはいえないという意見もあるようです。
奴隷王朝の期間が短いので、たとえ全員が奴隷出身でなくても奴隷王朝と呼んでもいいと僕の意見を述べさせて頂きました。
マルムーク制度について
一度奴隷として生まれたものはずっと奴隷身分から解放されません。
しかし、主人の「所有物」ではあるものの、奴隷を解放することを善行として認められていたので、多くの有力者は奴隷に軍事教育を受けさせ奴隷から解放させました。
それをマルムーク制度と呼ばれています。
奴隷出身の王たちも有力者によって教育を受け、奴隷の身分から解放されたのですね。
奴隷王朝初代の王アイバク
アイバクの生い立ちと功績についてお話しました。
初代の王、アイバクが亡くなった後も建設された塔やイスラム文教地区にアイバクの名を取っているものがあります。
それは人々に尊敬される存在だったからこそ名前として残されたんじゃないかと述べました。
ゴール朝を勉強を兼ねてお話しましたが、いかがでしたでしょうか?
ゴール朝そのものは先に滅んでしまったけど、ゴール朝から独立した国の方が長く存続したということが印象的でしたね。
覚えにくいイスラム史が少しでも楽しく覚えられたなら嬉しい限りです。
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